「海外旅行、行って来たら?」
嫁さんが突然そう言い出した。4月の初旬だった。
私の家族は4人。嫁さんと、貧乏な新婚生活の最中に生まれた肢体不自由で知恵遅れのいわゆる障害児で12歳の長男と、今年小学校に入学した元気印の娘が居る。
今では人並の生活をさせてもらってはいるが、普段障害を持つ子供の面倒を見ている嫁さんへの遠慮から、ゴルフの様な浪費と家を空けることの多い趣味は持てなかった。
中学生の頃に取ったアマチュア無線でパケット通信を始めたのも、在宅で手頃で未開拓のテーマが他に見つからなかったからで、海外旅行など一生無縁の事だと諦めていた。「子供も一緒に連れて行けばいいじゃない。」と、事情を知らない人は簡単に言うのだけど、子供の事を一番知っている親としては、そう簡単にはいかない。嫁さんの希望は、子供の面倒以外は全く手の掛からない、近場のリゾートホテルでの休日ということになる。事実、毎年夏休みはそうしてきた。
18の時、高校を卒業を前に、ナホトカ経由シベリア鉄道で半年間のヨーロッパ旅行を計画したこともあった。しかし、たまたま組んでいたバンドがコンテストで優勝してしまった為に、その後の2年間はプロ志向の他のメンバーに引きずられ、夢中になっている間に堕落し続け、バンドが解散した頃にはそんな計画をした事さえすっかり忘れていた。
2度目は28の時。やはりヨーロッパを周遊した後、リオのカーニバルを見て、そこで30になる前に刺されて死ぬ。という訳の解らないものであったが、これは計画というより、願望だけで終わった。
仕事の関係で国内を飛び回る事が多いので、ついでにその周辺に足を伸ばし、持ち前の感性と検証力で、自分なりの旅はつくってきたつもりだった。それでも常に頭の片隅では、地球の大きさや自然や歴史を、この目で検証したかった。職場の若い社員が、取引先の人が、海外旅行の計画を立てているのが本当に羨ましい。
現在38歳。忙しい仕事が一段落ついたところに、冒頭の嫁さんの嬉しい言葉。最近では家に居てもあまり口をきかない夫婦になっていたのが、突然どうしたのだろう?とは思ったが、そういえば私が一年に一回くらい、「海外旅行行ってみたいなぁ...」と口にしていたのを、気にしていてくれたらしい。ただ一度だけ、という条件付きではあったが。
小学校1年の時に、父親に買ってもらった地球儀を暇さえあれば眺めていた私にとって、地球上は何処でも興味の対象であり、行きたい所だ。条件としては、「日本人が少なくて」「4大文明以外の遺跡があって」「自然と土の香りを感じる」「華やかでは無い文化」等を考え併せた結果、南米ペルーとボリビアのツアーを見つけて、比較検討することも無く申し込んだ。ヨーロッパ・ツアーと比較しても倍近い費用に、嫁さんも驚いて反対したが、申し訳ないけどここで引き下がっては、一生後悔することになりそうなので、わがままを通させてもらった。それから全ての準備が始まった。
パスポート取得や予防接種(本当は必要ないのに、横浜の検疫所に騙された)を済ませ、海外旅行の入門書を読んで知識を蓄えた。一方、お小遣いくらいは自分でねん出しようと思い、手持ちの趣味の機材を片っ端からパソコン通信を通じて売却した。
ゴールデンウィークを挟んで14日間。こんなに長い休暇を取るのは、就職してから初めての事だ。初めての海外旅行先としては、ちょっとヘビーではないのか?と、周囲のみんなが言う一方で、幾人もの海外旅行へ何度も行ってる人から羨ましいと言われて、いっそう自分の選択が正しかった事を確信した。出発の前日まで仕事はした。多少ウワの空ではあったが....
2日後に辞める部下の女子社員の送別会も延期させた。終業のチャイムが鳴った。
「お先に失礼!」と言うところを、思わず「行って来まーす!」